鈴木稲荷神社の由緒

御祭神である、稲荷大明神様は新潟県胎内市舟戸地区の地元の名士であった鈴木家の先祖が全国の稲荷神社の総本社である京都の伏見稲荷大社より、御分霊を勧請しお祀りさせていただきました。

江戸時代、現代の胎内市(大桜)~新発田市(横岡)の両峠の山には古い木が生繁って迫り、風も強く昼でも暗く、山賊が横行し、旅人の中には命を奪われる人も数多くいました。

鈴木家の先祖の鈴木道喜は、この悲惨な現状をとても悲しんでいました。ある日夢枕に稲荷大明神が現れ、道喜に告げました。
「汝、この往来至難なる峠を開削し、難民を救うべし」と。
道喜はさっそく一族に告げ、「稲荷大明神」に大工事の安全祈願をして、私財を投じて6年の歳月をかけて約5,0kmほどの安全な道を切り開きました。当時は車も便利な機械もなく、どれほど大変だった事でしょう。

時の徳川幕府は、大いにその功績をたたえて、「褒詞」と「白銀十枚」を以って賞しました。(嘉永2年正月)
道喜をたたえる「頌徳碑」も大桜峠の頂上の小高い所に建てられています。また、新潟県立図書館にも「北越名流遣芳」という本に道喜の功績が説明されています。

時は流れ、子孫の鈴木邦衛は縁が有って、現在の新潟市北区高森新田に移住しました。
妻の「スイ」も信仰心がとても厚く、やがて神のお告げを受け取りました。
その内容は「鈴木家は、先祖代々信仰心が、いと厚く神仏を敬い尊びしも、その福徳を授ける事あたわらず(当時は戦争などで時代は混乱していたためと思われる)だが、今ここに、汝等に神仏と更には先祖と親の福徳を授ける。この土地に至りて多勢の人々を救うべし、疑ってはならぬ。まずは我を祀る社(やしろ)を建てよ」との事でした。
この神の啓示が、鈴木稲荷神社発祥の始まりです。

神より啓示を日々受け取り、人々を救う手伝いをするには、1人1人の悩み苦しみを手に取るように理解する為に「スイ」自身も同じ艱難辛苦を乗り越える試練が神から与えられたのでした。

神秘的な力を授かった「スイ」のもとには、毎日、近隣や県外からも多くの参拝者や相談者が救いを求めて集まりました。
やがて、夫の邦衛も神職の資格を取得しました。
「この先、神社と成る」という神のお言葉通りに、昭和50年8月25日 鈴木稲荷神社が立上りました。
※鈴木邦衛、スイはすでに祖霊となっています。

レンズが捉えた神が放つ一瞬の光

公民大舟戸の里人鈴木道喜は、日本なす神の御魂やたもりけん
旅人の声なつむを、助け行く駒のあしなやむことも救わんの思い兼ね
有りて窪田なす大桜のたむけを、こたみかたらに
なほしおいすがって山路もよけく造りなほせるは尊むべし
玉鉾の道の松風心あらば
世々に其の名を吹きも伝えよ  源甕雄
「北越名流遣芳」より抜粋

褒詞

事蹟

・御神霊石

稲荷神が宿っています。
手を直接当てて次にその手を、体の痛いところや不調なところに当てて
平癒をお願いして下さい。

・地蔵菩薩

明治27年、胎内市舟戸に祀られました。